黒川としあき
泉大津市議会議員
大阪で育ち清風高校テニス部時代は北助松の清風南海のテニスコートにて猛練習。
関西学院大学社会学部卒
長年、サービス産業の仕事に従事し、2019年11月に泉大津市昭和町にてドローンスクールを立ち上げる。
・ドローンオペレーターアカデミー校長
・一般社団法人マルチコプター安全普及協会代表理事
昭和42(1967)年 東京・両国生まれ(父は 元大関・北葉山)
両親の離婚で2歳半より大阪で育つ。
大阪市立天王寺区大江小学校では悪がきで先生を困らせる。
大阪市立天王寺中学校でテニスと出会う。
清風高校に入学しテニス部入部。
地獄のような厳しい練習で365日テニスに明け暮れる。
高2の夏の大阪大会で敗れ、レギュラー候補から外れる。
「このままでは、大学に行きたいならテニスでも勉強でも無理!」という状況になり、高2の秋からは部活と勉強の両立をテニス部監督の富岡先生より勧められる。
それまでは、朝練の後、授業中は居眠り、放課後にはクラブ・・・という生活だったので、クラスの成績は52人中たいてい48か49番。学年でも約1,200人中1,100番程度。
高校3年のときにインターハイ団体優勝を経験。(もちろん、コートの外で“応援団長”)
現在は清風高校テニス部OB会役員。
大学受験は5つ受験し、奇跡的に関西学院大学社会学部のみ合格し、入学。
学生時代に塾講師や喫茶店、レストラン、引越しなど色々なアルバイトを経験。
卒業後は、ホテル・オークラ・東京で修行後、大阪に戻り数々のサービス業に従事。
2001年高石市に転居。(妻、長女、長男)。
泉州への移住を契機に、長らく泉州で冠婚葬祭業に従事。
2016年より泉大津での仕事が増え、深く泉大津市と関わって行くこととなる。(中古車ビジネス・ドローンビジネスなど)。
2022年泉大津市に転居。
・ドローンオペレーターアカデミー(泉大津市):校長
・一般社団法人マルチコプター安全普及協会(泉大津市):代表理事。
モットー:誠意・コツコツ
今まで、サービス産業を歩んできて、その業界や店・会社に飛び込んだ当初に「色々な疑問」が生まれました。
新鮮な目で見た素朴な疑問や問題点が、のちのち、改善や改革の部分になったことがたくさんありました。
そういう問題点はすぐに改善や解決できる部分もあれば、時間がかかるけれども絡まった糸を少しずつほぐしながら改善・解決できる部分もあります。
何事も「実行力と行動力と忍耐力」が必要ではないかと考えます。
* 飲食店の若い店長時代、自分は店長ですので、毎日、気合を入れて、完璧な仕事を目指したいました。
もちろん、自分は率先して色んなこと行ない、仕事もほぼ完全だ・・と自分で思えるくらい頑張っていましたので、他のスタッフやアルバイトには厳しくしていました。
しかし、アルバイトの動きが全体的に良くなく、まとまりがなくバラバラになってきました。
自分に対しても反発的になってきました。
「このままでは、上手くいかないなぁ・・・」
簡単に言えば「自分は一生懸命に完璧を目指して頑張ってきているのに、後ろを振り返れば誰も付いて来ていない」こんな状態でした。
そこから、スタッフに対する接し方やアルバイトに対する教え方など、試行錯誤をしてみて、店の空気が変わって行きました。
「自分の感覚を押し付けるだけでは上手くいかない」と言う実感。
やっぱり、たくさんの理解者、協力者がいてこそ、上手くいくのだと実感しました。
東京の病院で、元大関 北葉山の次男として、生まれました。
当時の名前は、山田俊明。
19歳で嫁いだ若い母には、角界は厳しかったのかは分かりませんが、両親の離婚で、母の出身地「大阪」に兄とともに引っ越し。
祖母が飲食店をしていたので、母はそこを手伝いながら、育ててくれました。
夜が遅かったのか、朝早くに兄と一緒に家で騒いでいると、寝ている母に「うるさい!!」とよく怒られました。
ある朝、兄と朝早くから騒いでいると「うるさいから東京に帰りなさい」と言われ、兄と2人でタクシーで伊丹空港に行きました。
子供2人をタクシーの運転手さんがよく乗せてくれたなぁ・・など不思議なことはありますが、伊丹空港に到着!
飛行機の乗り方が分からなくて空港をうろうろしていると、警察官なのかガードマンさんなのか覚えていませんが追いかけられて、逃げ回りました。
必死でエスカレーターを逆走して登りきったところで捕まったのを覚えています。
*小さい頃は悪ガキでした。
体は小さい頃から大きかったんです。
悪ガキの僕は、先生も周りの友達も困らせていたので、大人なった今では恥ずかしくなることがたくさん有ります。
今思えば、親の離婚で母が毎日遅くまで働いてくれていたので、親の前では良い子で居たかったり甘えたかったりの反動で、学校では、ストレス発散みたいな感じで身体の大きかった僕はやんちゃをしていたように思います。
母が仕事から帰ってくるのはたいてい午後9時か9時半頃。
そこから母がご飯を作ってくれて晩御飯でした。
それまでは、兄と2人での留守番なので、チャンネル争いなどの喧嘩が多くて「母さん、早く帰って来ないかなぁ」といつも思っていました。
小学校も高学年になると、悪ガキでやんちゃだった僕は、周りの友達にも嫌われだしたので、凄く反省したことは今でも強く覚えています。
当時からの友達には小学校低学年時代は「暴君だったな」と、今でも笑ってからかわれます。
中学校時代は、丁度、校内暴力が社会問題になり、「金八先生」なんかが放映されていた時代。
当時の天王寺中学も、荒れていました。
身体が大きかった私は、中学の入学式に、いきなり先輩の洗礼を受けて、怖かったです・・・。
でも、テニス部に入ったことが良かったんです。
その当時、「スポーツといえば野球」の時代ですから、野球部は部員が多かったので、たまたまテニス部が新しく出来るということで、友達と一緒にテニス部に入部しました。
当時、テニスはブームで、ボルグやコナーズ、マッケンロー、クリスエバートやナブラチロワなどが居た時代です。
テレビで観たら「凄く簡単に見えた」ので、これなら僕も世界に挑戦できるのでは・・・と思い、入部。
ところが、とても難しかった(笑)ので、逆にテニスに夢中になりました。
中3の大会で大阪市内の団体戦で3位になりました。
キャプテンの私は個人戦の優勝候補と互角に戦ったので、清風高校のテニス部からお誘いが来ました。
清風高校に入学し、テニス部に入部。
全国でも有名なテニスの強豪チームに入ったわけですから、練習はきつかったです。
高校1年の入学式前の春の合宿から参加。
練習がきつ過ぎて、正直、入学(入部)したことを後悔しました。
当時、合宿中は1年生は朝の6時前に起きてコート整備、6時半から練習開始。
清風南海で練習をさせてもらっていてナイター設備があったので夜の21時か22時までは練習でした。
普段の練習も、大阪市天王寺区にある清風高校での授業の後に高石の清風南海まで電車かランニング(約20km)で移動して、夜の9時まで練習でした。
大晦日は昼まで、元旦は昼から夕方まで。
テニステニスの毎日でした。
社会人になってよく思うのは、監督や監督の奥さん、ご家族は、ホントに大変だったんだろうな・・・と実感します。
監督は、高校日本1のテニス部を目指し、その目標のために部員も集まっていたので、監督の情熱や苦労、奥さんのご苦労は凄いなぁと今は実感しています。
高校1年の大阪新人戦でダブルス3位になりましたが、高校1年の7月に停学になっていました。
私が悪いことをしたのではないけれども、友達をかばったばかりに、なぜか共犯扱い。
処分は「般若心経“1,080枚”」、煩悩の10倍の数です。
清風高校は「停学○○日」ではなく「般若心経の写経○○枚」が停学期間。
最初は1枚40分から1時間は掛かります。
途方も無い数字でした・・・。
親にも泣かれ、事の成り行きを説明しても、言い訳にしか聞いてもらえず・・・。
「これが冤罪か」と思いながら、夏休みも含め約3ヶ月掛かり書き上げました。
チームにも迷惑を掛けましたのでクラブを辞めようと思いましたが、その後も頑張らせていただくことになったのも、監督のおかげでした。
高校2年の6月に学校で喧嘩をしてしまい、また停学処分・・・。
今回の処分は“120枚”。
前年に1,080枚を書いている私は、今回はすぐに書き上げましが、その夏の大会は、大阪の大会で負けてしまいました。
同期は皆ベスト16以上に入り、近畿大会の出場権もたいていの同期は掴んでいました。もちろん私は近畿大会には行けません。
監督に呼ばれ「もし、大学に進学したければ、今のテニスの戦績ではどこにも行けないし、勉強でも行けない。高3最後の春の大会に賭けるのか、今から勉強するのか決めなさい」とのこと。
勉強は、高校に入ってからは授業中は正直よく居眠りをしていましたので、クラス52人中、たいてい48番か49番。
学年では約1,200人中 約1,100番辺り。
悩んだ結果、勉強をすることにしました。
やはり、スポーツは1発勝負ですから、1回の大会に掛けるのは怖かったです・・・。
監督のご厚意で、練習量を少なくして貰い、クラブを続けさせて頂きました。
高校3年の春の大会は、個人戦はシングルスもダブルスも大阪大会で破れましたが、チームや多数のチームメイトは、インターハイの出場権を獲得。
インターハイ団体戦では本命の柳川、堀越学園を抑え、奇跡の全国優勝。
もちろん、私は「応援団長」。
日本ではトップクラスのテニス部でも、全国優勝はなかなかできません。
同期と後輩で編成されたレギュラー陣がコートで大喜びしている姿を、コートの外で寂しい気持ちではあるものの、大喜びしました。
インターハイが終われば、受験を残すのみ。
翌年の2月に向けて猛勉強を開始。
睡眠時間を削って毎日勉強しました。
大学受験は、5校受験し、関西学院大学社会学部だけ合格できました。
ホント、運が良かったんですが、「努力すれば、ある程度は報われるのかな!?」と思いました。
大学からはテニスは辞めました。
それまで6年余り、テニス中心に生活してきたので、色んなことにチャレンジしてみたかったからです。
まず、今まではクラブ活動で出来なかった「アルバイト」を早速始めました。
心斎橋にある「プランタン」という喫茶店でした。
夏休みは、大学の交換留学で、生まれて初めてアメリカに行きました。
親が忙しくて、小さい時から家族旅行なんてしたことが無かったので、ワクワクしました。
2週間のホームステイでしたが、アメリカの大きさと文化の違いでカルチャーショックを受けましたね。
その当時、まず挨拶は「How do you do?」と中学1年の時に教えられていましたが、その挨拶をしたら、子供たちがクスクス笑い始めました。
後で理由を聞くと、「“How do you do?”なんて表現は、古すぎて誰も使わない」とのこと・・・。
初対面の挨拶からつまずきました・・・。
ホストファミリーの家に着いて、部屋に案内されてびっくり・・。
個室と思いきや、小5の男の子との相部屋で、「2段ベッドの上か下かどちらが良いか」と尋ねられました。
小学生時代以来の2段ベッドを再体験。
親から初めて2週間も離れて暮らし、言葉は通じないし、何を言っているのか聞き取れないしで、余計にホームシックに掛かりました。
でも、この2週間はとても貴重な経験をさせてもらいました。
大学1年の秋には、先輩から塾の講師の仕事を紹介してもらい、2年間は塾の講師を務めました。
やはり、人を教えるのは難しくもあり情熱も要りました。
すごく、いい勉強をさせてもらったけれども、塾や教育の実態も見えました。
学生バイトの塾講師は、頭は良くても人格形成中ですので(私は現在も人間形成中ですが)かなり講師の質のバラツキがあります。
事もあろうに、講師の中で「僕のクラスの○○ちゃんが可愛い・・」なんて言っている大学生のアルバイト講師なんかも居て、腹が立ち文句を言ったこともありました。
「どんな先生で、どんなカリキュラムか」が重要だと思います。
勉強が好きな人はほとんど居ません。
先生が生徒の興味や好奇心を刺激して、その教科の楽しさを表現して、面白く学習してもらう工夫が大事だと実感しました。
いまも当時の生徒から連絡を貰うと、ホント嬉しいです。
学生生活も限られている中、塾の講師ばかりでは他のアルバイトは出来ません。
塾の講師は、春・夏・冬の休み期間中は講習会があり、普段の授業プラス補習をして、情熱を注げば注ぐほど仕事に拘束されます。
2年間続けた後、他のアルバイトなどを経験しました。
引越しセンター、レストラン、カラオケボックス、スイミングのコーチ・・・色んなことを経験できました。
大学3年の春には音楽に出会いました。
昔から音楽を聴くのが好きで、バンドに入ってみたいという願望はありました。
しかし、楽器も出来ないし、楽譜も読めないし、歌が特別に上手いわけでもない。
たまたま、同級生がバンドをやっていたので、冗談で「俺も入れてくれよ」と言いました。
ちょうどチェッカーズが流行っていたので「SAXを買えば入れてやる」と言われました。
「SAXを持っているだけでいいから、そうすればコーラスで入れてやる」と言うわけです。
SAXの形はなんとなく知っていても音色すら知らない私でしたが、バンドに入れて欲しい一心で親に頼んで保証人になって貰い、生まれて初めてローンを組んで、楽器店で一番安いSAXを手に入れました。
そして、首尾よくバンドに入れて貰いました。
そこからは、持って立っているだけでは面白くないので、持ち前の負けん気で、がんばって練習しました。
人間、上手くなればもっと面白くなるもので、それに、「上手くなったやん」ってオダテられれば嬉しいものです。
SAXや音楽の魅力に触れて行きました。
そして、テナーSAXの荒崎英一郎先生と出会い、教えて欲しいとお願いしました。
運よく教えてもらうことになって、上達のスピードが上がりました。
それまでの先生は昔ながらの教え方。褒めるどころか、冗談でもクサします。
「おまえ、下手やなぁ。もっと、練習せなアカンわ」「そんな練習してるん?!まだ早いで!」・・・。
でも、荒崎先生は私に合ったカリキュラムを考えてくれました。そして、褒めてくれ、興味とやる気を起こさせてくれました。
お陰でかなり上達した私は、大学の最終学年の時に「音楽で飯を食いたい!!」と思い、就職活動もせず音楽活動に明け暮れ、卒業後もアルバイトをしながら頑張っていました。
東京での生活は短いものでしたが、宴会や結婚式、迎賓館での出張サービスやフレンチレストラン配属など良い経験をさせて頂き、私の接客の基礎になっています。
当時の橋本保雄常務には、お世話になりました。
祖母が亡くなり、大阪に戻ってからもサービス産業をずっと歩んでまいりました。
大阪ミナミの東心斎橋に平成6年7月に「鮮魚寿司 波平」のオープニングスタッフとして参加しました。
突然、店長が辞めることとなり、「次の店長になって欲しい」と頼まれて、確か翌年の1月から店長になりました。
寿司業界も色々と既成概念などで難しい世界でしたが、少しずつ改善と改革をして、繁盛店にさせて貰いました。
その後は、店舗開発や運営の仕事をしました。
ある時、葬儀業界からの仕事のオファーが有りました。
「葬儀業界はこれから、サービスの時代になっていく。うちで仕事をしてみないか」
2002年の4月からだと思いますが、そこから、葬儀業界に関わりました。
そして、業界の改善と改革を行ってまいりました。
葬儀業界も、既成概念の強い業界でしたので、スタッフの考えや仕事の進め方や接客、業界の仕組みなど改善点はたくさんあり、やりがいのある仕事でした。
また、お客様との接点が多く、共有する時間も長いので、接客力が凄く重要な仕事です。
お客様から喜んでもらえる、そして、「ありがとう」と言って貰えたときの嬉しさは他の接客業とは違うものがあり、やりがいのある仕事でした。
私は社会に出てからは主にサービス産業を歩いてきました。
その基本は人々に喜んでもらう事、人々の心を大事にする事であります。
これはどこか政治と通じるものがあるかも知れません。